京都市産業技術研究所塗装技術研究室
大藪 泰(Ooyabu Hiroshi)趣味 学生時代から今も続く「アフターテニスとアフターキネマ」,家庭を持って「家事手伝い」,最近目覚めた「読書と貯金」
漆と聞いて皆さんは何を連想されるでしょうか。子供の頃,山遊びの数日後に腕や顔に発疹が出来て痒くてしかたがなかった,いわゆる漆かぶれ。やはりお正月に使用する重箱や屠蘇(とそ)道具等の塗りや蒔絵の美しさ。いやいや,漆器は値段が高い,高くて手が出ない。など人それぞれでしょうが,漆工技術は日本の代表的な伝統産業であることには間違いありません。これに用いる漆は,漆の木から樹液を採取し塗料として使用したもので,我が国では縄文時代からすでに使用されていました。
さて,漆器を思い浮かべられるとき,どんな色がイメージされるでしょうか。黒,朱,そして蒔絵の金。さらには薄貝や厚貝(螺鈿:らでん)に使用される貝の構造色。特に底光りのする漆黒の中で磨き上げられて光り輝く金の蒔絵に,得も言われぬ日本的優美さを感じ取られる方は多いことでしょう。一方,漆独特の朱色は人の目を惹きつけて離さない魅力的な色彩を放ちます。しかしこれら漆の色に関して,意外と知られていない三つの事があります。まず1)塗料としての漆自身の色は濃い赤茶から茶褐色をした飴色透明の液体で,乾燥した膜も赤褐色の色をした有色透明膜であること。次ぎに2)この赤褐色をした有色透明な漆膜は,時間とともにその着色度が低くなり透明性を増すこと。さらに3)漆黒と言われている黒漆はカーボンブラックなどを分散させた顔料着色でないこと。
1)合成樹脂塗料は無色透明です。従って使用した着色顔料の色が,ほぼそのままエナメル塗膜の色彩となります。しかし漆は赤褐色の有色透明膜ですので,着色顔料の色そのものが,色漆の色彩にはなりません。ビヒクルの漆膜自身の透過色と顔料の反射色が合わさった色彩になります。明度や彩度の高い色彩は困難で,特に白色は不可能です。また漆膜の乾燥がはやいと,漆膜自身の着色度は大きく褐色が非常に強い膜となり,従って色漆膜の色彩は明度・彩度とも低い,暗い色彩になります。
2)ところが,この赤褐色をした漆膜の透過色は時間の経過とともに,その着色度が低くなります。具体的には赤褐色から黄褐色に変化していくと同時に,明度が上がっていきます。この変化は室内ならば約3ヶ月で落ち着いていきます。つまり色漆で有れば,使用している間に少しずつ明度・彩度が高くなり,鮮やかな色彩に発色してきます。使用している間に色彩が変わる,工業製品なら変色と言われてクレームになるかもしれませんが,これも漆の魅力のひとつになっています。
3)一方,「烏の濡れ羽色」「漆黒」等の表現に示されますように,漆の黒色の表情は日本特有の美しさを感じさせます。黒呂色仕上げ(磨き仕上げ)の黒み感,深み感,透明感,さらに真塗(艶を落とした塗り立て仕上げ)の落ち着いた黒み感は,合成樹脂塗料では得難いものがあります。合成樹脂塗料ではカーボンブラックなどの黒色顔料をビヒクルに分散させて作成されますが,漆の黒は,漆と鉄粉や水酸化鉄と反応させて黒漆を作成します。これは漆の主成分であるウルシオール(3-アルケニルカテコール)と鉄が反応して,ウルシオール鉄塩を形成しているためと考えられています。つまり黒漆膜はビヒクルとしての漆膜そのものが黒色に着色しており,これが吸い込まれるような黒漆膜特有の色彩をかもし出しているのではないでしょうか。
以上のように,漆膜の色は合成樹脂塗料と異なった趣を持った色彩です。これは色彩ばかりでなく,漆膜の肌合いにも影響されているのでしょう。日本的優美さを感じます。この漆膜の優美さを最も発現させる色彩に朱溜塗りがあります。これは朱漆の上に透明の漆を塗り重ねる技法です。朱色の鮮やかさはありませんが,膜の底に赤味を感じる奥ゆかしい色彩になります。また上塗りの透明の漆が,先に示しましたように時間とともに着色度が低くなり透明度が増し,下塗りの朱色が次第にその正体を現してきます。この経時変化は漆の魅力(魔力)になります。さらに被塗物のエッジの部分は膜が薄いため,その朱色が他の塗り部分に比べ,やや際立つます。曙と呼ばれる所以です。
朱溜塗乗用車 2003年6月(左) 朱溜塗乗用車 2004年2月(右)
私たち研究グループは耐候性の良好な屋外用漆を長年研究しております。その一つの到達点として,昨年6月に朱溜漆塗り自動車を完成させました。フィールドテストの意味を持たせ,日常的に使用してその経時変化を追跡しております。ひとつの梅雨と夏を過ぎ9ヶ月が過ぎましたが,現在のところ充分使用に耐える様相です。昨年完成直後の写真と今年2月の写真をご覧下さい。朱溜塗りの特徴が見事に発現して,朱色が発色していることがよく分かります。漆塗りらしい,日本的優美さを持った乗用車になっております。この仕上げを行った乗用車は2台(日産ステージアとトヨタマークII)存在し,関西と北陸を中心に毎日走っております。お見かけしたらじっくりご覧下さい。漆の色です。